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『宇宙よりも遠い場所』 制作陣は視聴者をバカにしている

 

 

 

 前回、前々回と、『宇宙よりも遠い場所』の感想をまとめてきましたが、ここでいよいよ作品全体を通した批評をしていきたいと思います。

 

 各話それぞれの感想というのは記事でまとめていますのでそちらから。

 特に〈まえがき〉部分は読んでからこの記事を見るようにしてください。

 

honnosusume.hatenablog.com

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〈批評〉

 

 

① 目的と終着点について

 

 

 物語の基本は「行って帰ってくる」という点である。一部の恋愛物を除き、冒険にしても、旅行にしても、スポーツにしても、基本はこの「行って帰ってくる」という過程を挟む。その目的・設定が魔王なのか、観光地なのか、大会なのかは異なるがいずれも「目的・設定」があって、その「終着点」を目指すのである。

 

 しかしながら、この作品は「終着点」をはじめに設定してから「目的」を設定しているような気がしてならないのである。

 例えばドラゴンクエストなどであれば、「世界平和のために魔王を倒す」という目的があって「魔王の城」という「終着点」を目指すのである。

 

 これは私の予想ではあるが、一方この作品では「南極」という場所を女子高生が目指したら面白いよねという構想の下、「母が行方不明になった場所を訪れる」という目的を設定したのではないかと考えています。

 この大枠に限らず各話の至る所で、「こういう絵・こういう展開が欲しい」という「終着点」を定めてから、「キャラクターにこんなこと言わせよう・行動させよう」とか「こういう設定にしちゃえ」など「目的」を決める手法を取っていると私は考えています。

 

 その理由として、前回の〈感想〉で再三述べている、観測隊らしからぬ行動ばあかりを取っているからです。

 例えば、ヒナタがパスポートを失くしたとき。これは「ヒナタとシラセの友情を深めたい」という「終着点」を定めたうえで、「じゃあパスポートをなくすというストーリーにしよう」と二人がもめて仲直りをするため、ヒナタがパスポートを失くすという「設定」を組み込んだと考えられます。こうすると結構自然なんですよ。少なくとも、「南極観測隊という一大プロジェクトに参加するの女子高生がパスポートを失くし、挙句の果てに失くしてもへらへらしている」ということよりかは自然ではないでしょうか?

 

 ユヅキの誕生日ケーキも「4人で仲良く祝おう」という「終着点」にもっていくため、どうやって辻褄合わせるか考えてつくられたように見えたし、内地に行って貴子のパソコンを見つけたときも「4人で母の遺品を見つけた」という感動的なストーリーに仕立て上げるためそういう「終着点」を定めているような気がします。あくまで私の考えですが、そういった意図がビンビンと伝わってきます。

 

 

 ただ、こうなった原因というのも推測出来て、これは絵の美しさを押し出すためと考えられます。

 とにかく、絵がきれい。これがこの作品の最大の長所。この麗美な絵を見せるためのコンテンツに近いと言えます。

 そのため、こういう風景を描きたいとなったらそれに合わせたストーリーを作成する必要があります。「この絵を描きたい」という「終着点」に向かうために様々な「設定」を付け足した、「イラストのために後付けされたストーリー」ともいえるでしょう。

  つまり、この作品においてストーリーはどうでもいいのです。あくまで必要なのは「設定」であり「綿密なストーリー」ではなかったと、私は考えています。

 

 また4人の主人公についても同様のことが言えます。直情的なキャラクターであれば、○○ならこう動くとキャラクター先行で、結果はそのキャラクターに依存する、というパターンがあります。直情的な主人公が思わず殴ったとかだとイメージが付きやすいでしょう。

 しかし、この作品は「結果」が決まっていて、そのために各キャラクターが動かされ、しゃべらされています。例えるなら制作陣のマリオネット。ただの操り人形にされてしまっています。魂がこもっていないキャラだからこそ、私はそこまで感情移入できなかったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

② 設定として消費されてしまう彼女ら

 

 綺麗なイラストを多くの人に見てもらいたい。それはわかります。正直、私は感動さえしました。

 

 では、私が何に納得できていないかというと、ここに登場するすべてがコンテンツとしてしか見なされておらず、疲弊されるまで消費されていることについてです。

 

 

 少し離れますが、マーケティングの分野において「ブランド」という考え方は非常に大切です。ブランド価値を保つために以前は小規模小売価格というものが多く流行していました。

 例えば、「Gucci」というブランドがありますが、このブランドの商品は有名ですよね。持っていればお金持ちという代表的な例ではないでしょうか?

 しかしこの「Gucci」の商品が100円均一ショップで、しかも大量に販売されていたらどうでしょうか?消費者はそんな「Gucci」に価値を見出せるのでしょうか?そうなったらブランドとしても価値はほとんどなくなるでしょう。また、「Gucci」が好きで尊敬する人がいたら、それは悲しむでしょう。「俺がこんなに好きであったブランドが、こんなことをしてしまうなんて」と。

 

 この「よりもい」でも同じようなことが起きています。主に南極観測隊についてです。このアニメの描きかたのせいで南極観測隊の価値は著しく下がったと考えています。

 

 3年前、行方不明者を出したにもかかわらず徹底されることのない安全管理。隊員の南極に対する知識が不十分。南極に向かうための訓練不足。

 これを女子高生のせいといえばそれまでかもしれませんが、そんな女子高生を連れていくことを承諾している南極隊に問題があるとみています。

 

 

 加えて、南極の過酷さがほんとんど描かれていません。南極って意外と何もないといった描写もなく、生活の難しさを描くわけでもなく、ただ話が進んでいきました。

 

  

  これを観ていた私は、「南極ってその程度でいけるんだ」と拍子抜け。なぜなら特に勉強も運動もしていない彼女らが悠々と南極で生活したから。さらには、何もトラブルなくすごすし、苦労話もほぼゼロ。南極も観測隊もその程度なのかと。

 どうせなら、過酷さを描くか、意外と普通の生活と変わらないのかはっきりとコメントを残してほしかったですね。南極をテーマに掲げているのに、その南極での生活らしい描写がないのは、なんだか合理的ではありません。

  第2話でシラセが「数分の遅れが生死にかかわる」といっていたのに、結局南極に対しての敬意はなく、「女子高生が南極行ったら視聴率取れそう」とか軽い理由で南極という場所が採択されたのではないでしょうか?

 実際に南極で功績を残した人、今の南極で研究している人が不憫で仕方ないです。

 

 もう少し「南極」である理由をつくれなかったのかなと私は思います。

 

 

 

 

③ 彼女らは南極で何を学んだのか

 

 先ほどの話にもつながりますが、彼女らは「終着点」を南極にしていましただ、その「目的」は一体何だったのでしょうか?そして、長い道のりを経て、彼女らは何を得たのでしょうか?

 

 まず、彼女らが南極に向かうきっかけを振り返っていきたいと思います。

 

 シラセは母の遺品を探すため、キマリはここじゃないどこかに行きたいため、ヒナタは受験が始まる前に大きいことをしたかったため、ユヅキは仕事だったため。

 こう見るとシラセ以外きちんとした目標があったわけではないんですよね。

 

 最終的にシラセは「ざまーみろ」のシーンから読み取れるように、見返すことがメインになっており、母の思いも薄れています。さらに、遺品探しといっても、それは完全に私的なもの。母の研究を引き継ぐとかではないので、別に南極に仕事としていく必要はなかったのです。

 

 ここまで見ると、ただの南極旅行なんですよね。思い出作りの一環というか、女子高生が遊んで大きいことをした気になるだけの娯楽。

 南極に向かう途中、そして到着してから何か明確な目標が定まるのかと思いきや、それもなく。最終的にはぼんやりとしたまま南極を訪れ、なんとなく帰還する。ただそれだけ。4人の友情を深める材料として観測隊は利用されたことに過ぎないのです。

 

 何度も似たようなことを書きますが、「女子高生が極地に行くことは、なんだか大変そうだし世間に受けるでしょ」と視聴者と南極観測隊をコケにしたアニメとしか私は見ることができません。

 

 ここで、本題に戻ります。

 「彼女らは南極で何を学んだのか」

 私の見解では、「安っぽい友情」です。

 南極でしか得られない特別な何かはないとみています。

 

 例えば、団体行動や規律は多少学ぶことができたでしょう。しかし、これまでの〈感想〉で述べている通り、それを軸に行動していたわけではなく、むしろ勉強不足・管理不足を露呈しているだけに過ぎません。

 また、南極の調査で何か学んだかといえば、それはないでしょう。専門家の中にド素人がいたところで描写されていたように雑用ぐらいしかすることがなく、実際に調査をしていたとしても上記の理由からろくに勉強していない彼女らが専門用語等を理解できるはずがないというのは自明であろう。

 そういうわけで、「南極」に行くことで何かをつかんだとは到底言い難い。

 もっと言うと、観測隊は南極旅行のために4人を連れて行ったと同義であるのです。

 

 もっとも、こういう言い方をしましたが、これは非常にナンセンスなこと。ただの粗探し。

 なぜなら、初めから「こういう目標のために南極を目指す女子高生」を描くつもりはないからです。シラセが遺品探しをするという目的さえ利用し、あまつさえその目的すら棄却しているのだから間違いないと思います。やはり、利用するだけの設定であるのです。

 

 

 

〈結論〉

 

 結局何が言いたいのかというと、この作品はコンテンツのために視聴者を利用しているということです。

 

 かわいい女子高生を主人公にし、お涙ちょうだいと言わんばかりの安易な人間関係を組み込み、盛り上がりそうな南極というテーマにし、ドタバタコメディで誤魔化す。そうすれば視聴者は喜ぶだろうとこちらを見下しているアニメ。 私はそう思います。

 

  アニメをつくるために、莫大な労力がかかるということは予想できます。しかし、だからといって「仕事」は浪費されるためだけに存在するわけではありません。設定やコンテンツではありません。

 少しでも多くの作品が、監督や制作陣の「描きたい」という熱量によって構築され、生きたキャラクターが誕生することを願っています。

 

 

 

 ここまで振り返ってみてどうだったでしょうか?

 もう一度、「よりもい」を見てみるのもいいと思います。まだ見ていない人はこれを機に見るということもいいと思います。

 かなり長文になってしまいましたが、以上で「よりもい」の批評を終えたいと思います。これまで付き合ってくださり、ありがとうございました。